《2日目:昭和50年3月19日 宗谷本線》

 旅行好きなら誰しも一度は最北の地を訪ねてみたいと思うだろう。蒸機の撮影でも稚内は魅力的だ。「天北線」「羽幌線」「興浜北線」という
ローカル線にキューロクの貨物列車が走っていたし、少し前までは宗谷本線にパシフィックC55が残っていた。
客車を牽いて北へ向かう姿には哀愁が漂い、雑誌に掲載された写真には旅情がかき立てられるものがあった。それに、サロベツの原野を抜けて海を
望んだとき利尻の山が浮かぶ。すごいところに違いない。
 函館からの「すずらん」に限らず北海道の夜行急行は混雑する。高校生に寝台車は無縁だ。並んででも座るしかない。駅員に自由席の停車位置を
尋ねて荷物を置く。しばらく待ってDD51の牽く「利尻」が入線してきた。座席を確保すると間もなく疲れもあって寝込んでしまった。
 目が覚めたとき、列車はサロベツ原野を走っていた。春3月といえども原野は白一色。どのくらい積もっているのだろうか?
人家が多くなり、南稚内着。ファンが大勢降りてくる。さして大きくない駅に人があふれる。窓越しにカマが見える。ここには機関区があって、キ
ューロクが配置されている。できることならクラに行ってじっくりと撮影したいところだがすぐに上りのディーゼルに乗らなければならない。
朝食を駅そばにしようかと思ったが人が一杯。何となく気後れしてしまう。たまには少しぜいたくしてもいいだろうと駅弁を求めた。できたばかり
で暖かい。記念に入場券を買って列車に乗り、さっそく弁当を食べた。
 そういえば当時はファンの多くが入場券を集めていたように思う。決して影響された訳ではないが自然に集めるようになった。ちなみに私はパン
チを入れてもらう派。邪道だという人もいたが、パンチもその駅の個性だと思ったから。
あの頃はちょうど「愛国−幸福」きっぷの流行り始めではなかったか?
 ディーゼルで一駅戻り、抜海で降りる。そこから南稚内方向に戻る。どうでもいい話だが、両駅の中間には南稚内からの行く方が主流のようであ
った。ガイドによると、タクシーで「利尻が見える丘」の近くまで、と頼むとすぐ近くまで行けるとか。
ともかくポイントに向かう。線路を歩いたのだが思いのほか積雪は少ない。30センチ位だろう。それでも時間に追われひたすら歩く。
やがてポツリポツリ人影が現われた。道ができており歩きやすい。少し息が切れたが丘の上に着く。
冷たい空気が火照った体に心地よい。海の方に目をやると利尻が霞みながら浮かんでいた。何とかフィルムにその姿を焼き付けたいと思い、ギリギ
リまで絞り込む。うまく写ってくれるだろうか?
  
 南稚内−抜海

 南稚内−抜海

 南稚内−抜海

 ここは午前中に貨物が行くと蒸機列車がなく、冷たい足をひきずって南稚内へ。周遊券が使える急行もいい時間帯になく、上りの普通列車で南
下する。
「北海道の鉄道でもう一度乗ってみたい路線は?」と聞かれたら迷わず宗谷本線と答えるだろう。このときも雪の原野と天塩川を眺めながらひた
すら名寄へ向かったのである。それから急行「なよろ」に乗ったのだと思うが記憶がない。
実は夏の撮影行の後、12月頃に名寄以南の蒸機はDLに置き換えられ煙は消えていた。そのためにこのあたりはただ通過したのだと思う。

 翌日は常紋。そのために「大雪5号」に乗る。始発からの乗車ではないから乗れるか不安だったが何とか席を見つける。当時は撮影のための移動
で旭川が結節点となっており、下車するファンも多かったのだろう。


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